2008/12/03

29 失敗の修正,失敗の克服によって成長する

 「負けが金メダルにつながった。」
レスリングの吉田沙保里選手が、北京オリンピック金メダル獲得後のインタビューに応えた言葉である。
2008年1月のワールドカップ団体戦で、アメリカ選手に負け、連勝記録(119)がストップした。
 タックルを返されて負けたのである。タックルをするときの自分の癖を読まれていた。そこからタックルの修正をしたという。
 「タックルにとびこみ、片足をとった後、横に回りこむようにした。」
 「負けていなければ、自分の弱点に気がつかなかった。」
 失敗を修正することによって、より高度な技術(わざ)を生み出したのである。

 トリノ五輪で金メダルを獲得したフィギュアスケートの荒川静香選手も、失敗を修正した経験が大事であったと語っている。
 「あのつらい時期があったから、今の私がある。 同じようなことがあったら、その時間を大事にしたい。」

 また、女子レスリングの浜口京子選手は、アテネオリンピックで銅メダルをとった後の会見で、次のように語っている。「もっときれいに輝くメダルが欲しかったんですが、私の人生の中で金メダル以上の経験をさせてもらいました」
 その経験とは、敗退から3位決定戦までの短い時間の中で気持ちの切り替えをしたこと。周りも本人も金メダルを確実視してきた、そういう状況下での準決勝敗戦。3位決定戦に勝つために、敗戦による精神的ショックを打ち払い、闘争心を奮い起こした。そういう場におかれて、チャレンジして乗り越えたこと。その経験が、浜口選手をさらにつぎの目標へ向かう姿勢を生み出したのである。

 失敗を失敗のままに終らせておいてはいけない。「いやな思い出」のままに終らせてはいけない。
 失敗したことがいやな思い出になり、そのことを避けるようになってはいけない。立ち直れないような失敗(挫折)をさせてはいけない。
 失敗を克服して、失敗から学んだことが多かった、良かった、自分のためになったという経験をさせなければいけない。失敗したことを克服したい、と思うように育てる。 失敗の克服が、よい思い出(充実感・達成感=快)になるように支援することが、指導する立場の者たちの目標だ。

28 成長する組織の条件 

できることだけやっていたのでは、成長しない

 始めてのことをするときは、たいていは失敗する。
 人間の脳は、失敗を修正することによって、目標の行動を成立させるための神経回路を作り上げていくのである。だいたい、初めての行動を行うときには、その行動を成立するための回路は出来上がっていない。人間の脳は、行動したときに発生した神経回路の興奮を記憶するという形で行動のしかたを蓄積していくものだからである。
 初めての行動をするときは、その行動を成立させるのに近いものを組み合わせて、脳は対処する。それに不足があれば失敗する。行動表現するための身体の各部と神経回路との信号のやりとりが、目標行動が要求するより遅い場合も失敗する。
 人は、何度もやり直してその失敗を修正していく。そうして、だんだん目標の行動を成立させるための回路を作っていくのである。繰り返すことにより信号の伝達スピードも速くなり、やがて目標の行動ができるようになる。
 人間は失敗を修正することによって成長していくのである。できることだけやっていたのでは、能力はそれ以上に伸びない。

失敗を許して、チャンスを与える

組織の力は、一人ひとりの力の総合である。失敗させたら組織にとってマイナスと考え、失敗させないようにしていたのでは、そのものの力は伸びない。一人ひとりの力が伸びていかなければ、組織としての力も伸びていかない。
 つまり、一人ひとりに少し背伸びをさせて、仕事に挑戦させることが大事だということである。そのものの頭をフル回転させて、仕事をさせる。そして、やったこととその結果を自覚させることが、成長させるためのポイントである。
 失敗したら、失敗の原因を分析させる。その対策を考えさせる。そしてもう一度チャンスを与える。それが上に立つもの、指導する立場にあるものの、あるべき行動の姿勢だろう。

そして、もうひとつやること

 それは、部下の失敗のカバー。
 上に立つもの、指導する立場にあるものは、失敗をカバーする力、失敗に対処する力を持っていなければならない。そうした姿勢と力を持った組織でなければ、成長していかない。

27 「なのに」と「だから」 その2

 おとなしい兄ときかん気の弟(あるいはその逆)。 上の子は食べ物の好き嫌いがあるが、下の子にはない(あるいはその逆)。「兄弟なのに」どうしてこう性格が違うのか。よく聞く話であるが、これも「兄弟なのに」ではなく、「兄弟だから」と考えるべきだろう。

 兄弟だということは、一人ずつ育つのとは絶対的に異なる条件がある。兄には年下の弟がおり、弟には年上の兄がいるということである。兄は、弟が生まれるまでは一人で育てられる。親に自分ひとりが世話されるという経験をしているのである。そこに弟が生まれる。親が、自分以外のものの世話をし、愛情をかける。自分と親の関係の中に入り込んできた新しいものとしての「弟」の存在を意識して育つ。また、新しい存在である「弟」に対して働きかけたり、「弟」から自分への働きかけに対応していく中で育っていく。
 
一方、弟の方は、始めから年上の兄がいる状況で、兄の行動を見て育つ。兄が自分に対する行動(世話であったり、攻撃であったり)を受けて育っていくのである。こうした経験がそれぞれの脳を育てていくのである。

 親の接し方も一人目の子と、二人目の子は違う。親として始めての経験であるひとり目の子育て、その経験を踏まえての二人目の子育て。病気になったとき、けがをしたとき、隣の子とケンカをしたとき、始めてのときと、経験を踏んできたときとでは対応が違うのである。
 こう考えると、違うのが当たり前で、同じになるほうが不思議というものである。

 「何回もやっているのに」「初めてなのに」「一番若いのに」「女の子(あるいは男の子)なのに」・・・・・・・・・というように、いままで「○○なのに」と考えてきたことは、実は「○○だから」であるということはかなりあるのではないか。逆に、「××だから」は実は「××なのに」である、ということもあるだろう。
 人の行動をみるとき、先入観で判断せずに、脳にどのような経験をさせてきたかという視点で、その人の行動を成立させてきた背景をとらえてみることが大切だということだ。そうすると、その人を理解するための視界が開けてくる。

26 「なのに」と「だから」

 脳の働きに目をつけて人間の行動をみるようになると、それまでの概念を改めなければならない思うことがしばしば起こる。従来は「○○なのに」と考えてきたことが、そうではなくて、実は「○○だから」だったのだと、まったく逆にとらえなくてはならなかったことに気がつくことがある。

 たとえば、子どもが暗がりを怖がって、一人では行かれないというようなことがある。そんなとき、周りのものは、つぎのような対応をすることが多い。
   Mちゃん、お二階が怖いなんておかしいよ。もう一年生でしょ。
   Kちゃんはまだ3歳なのに、一人で行かれるよ。
   Mちゃんはお兄ちゃんなんだから、一人で行かなくちゃだめじゃないの。
 
 ところがこれは大間違い。実はKちゃんは「まだ3歳だから」暗いところに行かれるのである。怖いもののイメージができていないからである。「怖い」という感情が育っていないのである。ところが小学校一年生のMちゃんには、大人の話を聞いたり、本を読んだり、TV番組を見たりする中で、脳の中に怖いもののイメージが出来上がっている。その脳が働いて、電気のついていない薄暗い2階の部屋と、怖いものとを結びつけるのである。

 つまり1年生のMちゃんは、「怖い」という感情をつくるために十分な経験をしたということである。怖がるということは、その子がそれだけ成長したことを示すものなのである。叱るより、この子の脳にはいろいろな情報が入ってきたな、ととらえるべきなのである。第一、叱っても脳の中のイメージが修正されるわけではないから、無意味である。怖がらないようにさせたいのなら、怖がる必要がないという新しいイメージを脳の中につくるために、どういう経験をさせたらよいかを考えた方がよいということである。

2008/10/17

25 千回の素振りか、あれやこれやの10回か

▼ 指導者によって、教える内容が違う・・・
 指導者によって言うことが違うので困る、どっちが正しいのかわからない、といった話をよく聞く。また、同じ指導者でも言うことがクルクル変わるので困る、という話も聞く。
 表題に揚げた例は剣道の話である。素振りというのは竹刀や木刀を空中で振り下ろす練習で、剣道界では大変重視されている。「振り千」という、千回の素振り練習を意味する用語があるほどである。しかし、その一方で、「あれやこれやと試行錯誤しながらの10回の方が、意味がある」と説くものもいる。古武道家の甲野善紀氏である。この相矛盾する2つの教え、いったいどちらが正しいのか。

▼ 「あれやこれやの10回」の意味
 「あれやこれや」というのは、研究的にやれということである。自分の技の問題点を客観的に見つめて、自覚的に練習せよということである。きちんと正しい振り方もできていないものが、無思考的に振っているのは意味がないばかりか、疲れるだけで練習の意欲を失わせることさえある。自己流に振ってへんな癖がついてしまうこともある。だから、名人達人の振り方と自分の振り方とを比較するなどして、どういう振り方がよいのか研究することが大事だというのである。

▼ 素振り千回で育つもの
 では、「千回」には意味はないのか。「千回」というのは、「練習量が大事」という意味をこめた言葉である。練習の「量」というのは、行動を成立させるためにどのような意味を持っているのだろうか。
 あれやこれやと試行錯誤し、理にかなった構え、身体の動かし方をつかんだとする。しかし、これだと思ったその一回だけでは、その構えやからだの動きは定着しない。脳の中にできた記憶回路の興奮状態も時間がたてば消えてしまう。何回も練習を重ね、脳と身体の各部との間に信号が何回も行き来させることにより、その行動のしかたの記憶回路が確固たるものになるのであり、またその行動を支える身体作りもできていく。練習の量は、行動の成立に非常に大きな意味を持っているということである。  
 「千回」も「あれやこれやの10回」もどちらもシンボル的言葉で、厳密に「千回」「10回」なのかはわからないが、結論を言えば「千回」も「10回」もどちらにも意味がある、どちらも必要ということだ。それぞれ問題にしていることが違うのである。

▼ 指導の意味を読み取る
 要は、場の条件や目的によって、また指導される人の状況・状態によって、学習させる方法、鍛える手段は違ってくるということだ。
だから、指導者の言うことが前に言われたことと違う、矛盾していると感じるときは、その指導が何を問題にしているのかを考えてみることだ。違うように見える(聞こえる)というのは、指導の内容、育てようとしていることが違うからである。

 たとえば、「もっと考えてやれ」と言われたとき、これはまだ、「あれやこれや」と試行錯誤して理にかなった行動のしかたをつかめ、ということなのだ。逆に「考えるな」「無心でやれ」などと言われたとき、これは、もう十分練習して(剣道で言えば千回の素振りをこなしてきて)理にかなった基本的な行動のしかたは身についているのだから、あれこれ考えず、とにかく相手の動きに反応して身体を動かせ、ということだと読み取れる。前に指導されたときの自分と、今の自分の違い、指導されたときのそれぞれの場の状況はどういうものであったか、自分の行動はどうであったかを考えてみると、きっとそうしたことが読み取れるだろう。そして、指導者が、どんな能力を鍛えようとしているのかを、読み取ることができるだろう。
 もうひとつ、指導の矛盾を感じたときにやってみることは、とにかく言われたとおりに素直に行動してみること。やってみて考えることである。やってみてできるようになると、そのことの意味がわかるようになるからである。

▼ 指導者の心構え
 指導者は、学ぶもの(学習者)に対し、そのものの課題と、そこまでのおよその段階、そして直近の学習(練習)の具体的な目標を分かりやすい形で示すのが望ましい。学習(練習)の見通しを示すということである。そうすると効果的な指導を展開することができる。人間の脳は、目標が見えること、頑張ればそこに到達できそうだと感じたとき最も意欲的になる、という性質を持っているからである。
 
参照:11「わかるとできる」ではなく「できるとわかる」
    15 脳が意欲的になる条件

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▼ 宮本武蔵の鍛錬
 宮本武蔵は、練習量が大事と説いている。「千日の鍛」「万日の錬」という言葉で、その重要性を説いている。「朝に鍛、夕に錬」という言い方もしている。彼の時代には竹刀はなく、練習に用いる道具は木刀であった。重い木刀を持っての毎朝、毎夕の鍛錬である。毎日重い木刀を振りつづけていると、その人の身体はどうなるか。筋肉がつき、心肺能力が鍛えられ、木刀を自在に操れるようになる。身体も早く動くようになる。目的はそこにあった。
 しかし彼は、単に練習量だけを問題にしていたのではない。「たち(太刀)の取りようは、大ゆびひとさし(親指人差し指)を浮くる心にもち、たけ高しめずゆるまず、くすし(薬)ゆび小ゆびを締むる心にて持つ也」「足の運びようの事、つま先を少し浮けて、きびす(かかと)を強く踏むべし」というように、理にかなった構え,身体の使い方についても研究を尽くし、客観的な目をもって自分の技をとらえていたということがわかる。

参照:日本武道全集第1巻『五輪書』人物往来社,1966年

2008/09/30

24 併行学習

▼9.11に思うこと
 9月になると多くの人が、アルカイダの攻撃によりツインタワービルなどが破壊されたあの7年前の出来事を思い出すことだろう。夜のニュースを家族全員で見ていた我が家においても、まさにリアルタイムの映像でそれを見てしまったため、いまだに生々しい記憶として残っている。
 映画やディズニーランド,コンピュータ,ゲーム機などで非常に近しい存在の国アメリカ、ニューヨークはそのシンボル的都会だ。そこでの大惨事。子どもたちにとっては、本当にショックだったに違いない。「どうしてこんなことが起こるの」「戦争になるの?」「日本で起きたらどうしよう」「怖いよ」、我が家の子どもたちも不安を訴えた。

 こうした、子どもが一人では考えられないようなことが起きたとき、大人がどう対応するか、それは大変重要なことである。冷静に情報をしっかりとることを、教えなくてはならないと感じた。それからの数日間、夫と私は、なるべく子どもたちと一緒に、過度にセンセーショナルに報道する番組や、憶測をかたる番組を避け、しっかりと調査して冷静に客観的に伝えようとする番組を選んで見ることを心がけた。  新聞にもどう書いてあるかも調べた。そして、そこから感じたことを話し合うようにした。
 そして事件の背景が見えてきたとき、それをどう判断すべきか、こういうことが起こらないようにするためにはどうしたらいいのか、そしてわれわれは何をすべきか、と話し合うようにしていった。

▼ いつもどおりの授業をした学校
 中学生の息子から、学校はこの大事件に関して何の行動も見せなかったことを聞いて、私は驚いた。わずかに、事件の翌日息子のクラスの国語を教えていた若い男性教師が授業の開始時に簡単に触れたのみであったという。朝学習の時間,給食の時間,ロングホームルーム、朝の全校集会、社会科の授業、総合的学習の時間、いくらでも時間はあったのに、担任も社会科の教師も、校長も一言も触れなかったというのである。学校全体で取り組んでいた総合的学習のテーマの一つが「国際理解」であったにもかかわらずである。
 
 月末に行われた息子のクラスの保護者会で、「子どもが大変ショックを受けたこのような問題に対して、学校,教師は、どう対応すべきだと考えているか」と、私は担任の教師(理科)にたずねた。「何もしません」「正しい答えがわかっていないことは、教えられません」と彼は答えた。

 「答えを教えてほしいと言っているのでなく、まず、子どもたちの動揺をどう受け止めてやるかということ。そして、こうした問題をどのようにとらえていくか、考えていくか、そういう姿勢を育てるということ・それは大事なことではないのか」重ねてたずねたが、彼は、「数学や理科の時間を削ってやるようなことではないでしょう」と答え、「今日はそういう問題を話すために集まってもらったのではないのだから、その話はもうやめてください」と怒ったように言った。
 結局、それ以後も息子の学年では、この事件をどう考えるかについては何一つ触れられずに終わった。
(ちなみに、総合的学習「国際理解」は世界のジャガイモ料理を材料にして展開された。)

 この教師、この学校が取った行動、「社会的に重要な意味がある問題や、子どもが関心を持っている問題を取り上げない」ということと、「正しい答えが出ていないことは教えない」という、ことである。このことは、脳にとってどのような結果をもたらすのか、それを考えてみたい。

▼ 併行学習
   ~行動の内容とともに、行動のしかたを併行して学習すること
 脳は行動したことを、行動したように学習していく、というのが脳の学習のしかたの原則である。
 
 つまり、教師が説明することを聞き、黒板に書かれたことを書き写す、それを覚える、という学習をし続けると、学習した内容と同時に、そのときの「教えられることを受け取って覚える」という行動のしかたも身につくということである。
 自分で考えて行動するということなしに、指示されたことを行動するという行動を積み重ねれば、「自分で考えず」「指示されたことを行動する」という行動のしかたが身につくということである。
 
 逆に、ものごとを自分(たち)で調べ、得られた情報をもとに自分(たち)で考え、(仲間と)話し合い、自分(たち)なりの見解を出す。新たな情報が入ればそれまでの情報と合わせて検討し、必要があればそれまでの見解を修正する・・・というように学習活動を積み重ねれば、そうした行動のしかたが身についていくのである。

▼ 「答えを教える」教育は、受身の姿勢を育ててしまう
 脳の学習の原則から考えると、「正しい答えを教える」という学習は、同時に学習者に「答えは教わるものだ」という考え方や「教えてもらう」のを待つ姿勢を育てていくことになる。
 
 しかし、実を言えば、世の中には、答えがない問題、そう簡単に答えが出せないことの方が多い。また「答え」があっても、一つとは限らない。ある場合にはよくても、別の場合にはあてはまらないということもしばしば起こる。今は正しいと考えられていることでも、新しい事実が明らかになれば、間違いだったということも出てくる。答えが決まっているのは数学や文字のように、約束を決めその範囲でものごとの関係を整理するという種類のもので、世の中のことは、「答え」を人から教えてもらうというような姿勢では立ち行かないことばかりなのである。
 
 したがって、子どもたちには、答えを教えるのではなく、答えの出し方を捉えさせなければならない。状況状態を観察する力、観察した結果を分析する力、わかったこと,わからないことを整理し、その段階で自分なりの行動のしかたを考える力、それを実行に移す力、また、実行してよい結果が出なければ、それを見直して修正する力、そうした力を育てることが大事なのである。

▼ 周りのことに目を向けさせないでいると、「無関心」を育ててしまう
 「正しい答え」が出ていないうちは「教えない」という考え方、これにはどんな問題があるか。
 9.11のような問題に限らず、世の中の多くのことは、先に述べたようにそう簡単には答えは出ない。ということは、誰かが答えを出してくれるまで考えない、避けて通るということになる。そうすると、社会的な問題,身近な問題、重大な問題でも、難しい問題は自分では考えない、避けて通るという行動のしかたが身につくことになる。
 
 「そんなことを考えるより、公式の一つも覚えろ」 そういう学習を積み重ねていくと、社会の問題を見ようとしない、他人のことに無関心な自己中心的な人間を育ててしまうことにつながるということが、容易に予測される。
  
 息子の担任の考え方には、子どもたちの育て方の上で、重大な問題があったのである。それに気づいていながら、教師の剣幕に驚いて引き下がってしまった自分が、いまさらながら情けなく口惜しい。

2008/08/08

23 いじめについて

●百人百様の意見
 いじめ行動がなぜ起こるのか。
 勉強や受験のストレスだという主張がある。勉強についていけないから面白くない。その憂さ晴らしにやるという意見もある。だから、もっと学習指導に力を入れればよい、と言う。充実感がない、集中できるものがない、その心の空白を埋めるためにいじめる、という主張もある。協力して何かに向かうことがないからだという人もいる。だから、部活動などに力を入れ指導せよ、などと言う。
 人の心を考える経験がないからだという意見もある。だから、福祉施設などでボランティア活動をさせよと言う。家庭教育がなっていないから、愛情を持って育てられていないからいじめる、いじめられたとき親に相談できないのだ、などという主張もある。また、いじめは本能だとする説もある。この説を採るものは、「いじめはあるものだ」という前提に立っていじめへの対応をしなくてはならないとする。
 百人いれば百様の意見が出てきて、対応策はなかなかまとまらない。確かに、いじめ行動が生まれる状況はさまざまである。しかし、脳の働き方という視点からいじめ行動をとらえてみると、視界が開けるように思う。いじめ行動が生まれるメカニズムには、共通した脳の働き方を見ることができる。そこから、いじめ行動を起こさない子どもたちの育て方を考える大きな鍵となるように思う。

●「いじめ行動」が生まれるメカニズム
 いじめ行動は、人間の快・不快という感情と関係して生まれる。人間の脳は、行動のまとまりとしての「いじめ」を本能としてもっているわけではない。しかし、自分にとって快である(心地よい)方向に向かって活動し、不快な(心地よくない)ものは避けるという働き方を持つ。この快・不快を感じる脳の働きが、いじめ行動を生み出すもとになっているのである。
 いじめを生み出す状況にさまざまな違いはあっても、そこに共通するのは対象に対する「ウザイ」「キモイ」という言葉で表現される「不快感」である。その不快感は、必ずしもいじめの対象が原因していない「受験や成績からのストレス」「仲間はずれという不快感から逃げる感情」もからんでいることが多いが、ともかくそれらの不快な感情を解消するために、脳は行動を起こすのである。そして「相手をいじめることによって得る快感」「仲間である安心感」を得るのである。
 快・不快を感じ、快の方向に向かって行動しようとさせるのは、生命の維持機能を担当する脳幹に属する扁桃体の働きによるもので、心地よいものが自分にとって安全であるとする「生命を守るための本能的な働き」である。例えば、人間は生まれたばかりのときは甘いものしかおいしいと感じない。赤ん坊にとっては甘い母乳が一番安全。「甘い=安全」であるから、「甘い」をおいしい「=快」と感じるようになっている。苦いもの辛いものは危険なものである可能性があるので、不快と感じる。だから、赤ん坊に甘いもの以外の味の物を与えても危険なものとして舌で押し出してしまう。
 つまり、自分にとって快でないもの(不快なもの)を排除するという行動は脳の最も基本的な活動なのである。自分の力を示すことで快となる行動、また不快なことを避けたり紛らわしたりするための表現である「いじめ行動」は、脳の本能的な働きを土台とした行動だということである。「いじめはどこにでも発生する」「いつの時代でもある」理由はそこにある。

● 行動のしかたで脳の働き方が育つ
 いじめは脳の本能的な働き方から起こる。しかし、現実には多くのいじめをしない人間がいる。人間の脳の働き方は、本能だけで決まるものでなく「育つ=変化する」ものだからである。人間の行動は、「快」「不快」という人間の本能的感覚に左右されるが、その人間にとって、何が「快」で何が「不快」であるかは、経験により変化していくのである。前述の味覚の例で言うと、大人は塩味も辛みも苦みも「うまいもの」として味わうことができる。成長の過程で、心地よい環境のもと信頼できるものから与えられていくうちに、脳の中に辛いもの、苦いものもだんだん美味しい(快)と感じる味覚の回路ができていくからである。
 脳が作り上げるのはもちろん味覚ばかりでない。経験したときの記憶を蓄積して、さまざまな行動と感情のネットワーク回路をつくりあげていく。先生にほめられたのがきっかけで絵を描くのが好きになったり、人前で失敗して以来話すのが苦手になったり、誰しもそれを実感する経験をもっているだろう。つまり人間は、行動の経験のしかたの積み重ね方によって、同じことを「快」と感じるようになったり「不快」と感じるようになったりする。行動をした状況や、その結果によって変わってくるのである。いじめ行動をおこすかどうかは、育て方(=行動の経験のさせかた)が大いに関わってくるということである。
 したがって、いじめ行動の対策は、脳の本能的働きかたと、行動経験からつくられる脳のネットワーク回路、その両面の視点を持って考えていく必要がある。

●「助け合うことの快」を体験させる
 
どうしたらいじめをやめさせることができるか。
 いじめをしている子どもたちの脳は、いじめをすることで「快」の状態になる。脳は、同じ行動を積み重ね、同じ回路を何回も使うほど、その回路の働きは強固になっていく。従って、いじめを封じるには、まずこの回路を使わない状態にしなくてはならない。しかし、ただ使わないというだけでは「いじめない脳」はできていかない。回路は休んでいるだけで、環境が整えばその回路は再び働くからである。
 「いじめない脳」にするということは、「いじめ」で快になる状態を、「いじめない」がより快であるようにするということである。脳には快と思う方向に働く自己保存の原則があるからである。脳の働き方から考えると、「いじめない」が快になるには、お説教を聞かせたり「いじめはいけない」というメッセージを読ませたりという受動的な行動より、「いじめないことにより、快を感じる行動経験」をさせる、それを積み重ねるということの方がはるかに効果的である。脳のネットワーク回路は、脳を複雑に活発に活動させるほど、そして感情が絡むほどしっかりできていくからである。
 「いじめない」というのは、具体的には助けるという行動、励ます、手伝うという行動だ。その行動の結果、またはその行動のプロセスが「快」をもたらすような、そういう行動の場を作って、その行動を経験させるということが必要なのである。
 もちろん、それはそう簡単なことではない。みんながやる気になるテーマ選び、そしてグループとして成立させるための手助けが必要となる。グループを作ればすぐ仲間になれる、グループワークができるというわけではないからだ。相手に伝わるように意見を言うこと、相手の言い分を聞くこと、意見をまとめること、仕事の分担、リーダーシップのとり方、協力のしかた、それらを育てるための、グループの状況に応じた適切な指導が鍵となる。

2008/06/27

22 本当は30歳過ぎると賢くなる その2

▼脳の働きを育てる行動のしかたと、じゃまする行動のしかたがある
 われわれ人間の脳は、使うことによってどんどん能力が高まる機能を持っている。誰でもどんどん賢くなる可能性があるということを、前回のべた。しかし、それをすべての人間が経験しているわけではない。小さいころ成績がよく、さぞかし優秀な人間になると思われたものが、思うように伸びなかったという例は多い。だが反対に、小学校中学校時代は目立たなかったが、20代30代になって頭角を現してくるという例もある。それらは、多くの場合、脳の働かせ方をどう積み重ねてきたかということに起因している。学習のしかた、仕事のしかたには、脳の働きを助け促進するものと、それとは逆に、働きをじゃましたり衰えさせたりしてしまうものとがあるからである。
  
▼頭の良さの正体は、構造化された「記憶のネットワーク」とアクセスの速さ
 頭の良い人とはどういう人だろうか。それは単なる物知りではない。新しい情報や状況に出会ったとき、それにどういう意味があるのか、またどこに問題があるのか、調べるべきことは何なのか、そうしたことが考えられる、そしてそれへの対処が素早くできる人のことを言う。幅広い視野で物事を考え、考える筋道が立っている、そうした人のことを言う。
 つまり、本当の頭(脳の働き)の良さというのは、ただ速く記憶できるとか、すぐ思い出せるといったようなことではなく、記憶したことを土台に物事を分析し総合する、そうした能力が優れていることを言うのである。そして、それは脳の「分類-組み合わせ」の能力、脳のネットワーク機能が優れているということに他ならない。

▼ 構造化されたネットワークの威力
 下の図A,Bは、脳内の記憶の構造のイメージ図である。図に示した○や△の記号は、脳に取り込まれている情報(記憶)を意味する。それらがいかに整理され構造がついているかで、その人の力量が違ってくる。脳内の記憶の構造がついていると、他の記憶との関係が明らかで、探したり組み合わせたりが容易である。新しい情報が入ってきたとき、どこに位置づけるかがわかるし、どういうものが不足しているかもわかる。


A 構造的に整理されている記憶

◎―○―□―◇―△―▽ 
   ●―■―◆―▲―▼
    ●―■―◆―▲―▼


B 整理されていない記憶

    ▼ △ ○
  ■ □ ▽ ◎ ▲
  ● ● ▼ ◇ 
     ■ ▲ ◆

 
 具体的な現象や事実、そしてその背景、土台となる理論,自分自身の経験などが、この図Aのように構造的に関係付けられている脳と、そうでない脳Bおでは、決断や行動を迫られる場におかれたときの働き方の違いは押して知るべしである。

▼ 脳のネットワーク形成を助けるもの
 行動したこと経験したことを記憶していくというのが、脳の働き方の基本システムである。そして、その記憶を分類し関係づけ、記憶のネットワークをつくる。たくさんの経験をし、その行動・経験の記憶がうまく分類整理されてつながっていけば、脳の働きは爆発的によくなっていく。
 脳のネットワーク形成を助けるには、「分類-組み合わせ」型の行動が効果的である。ものごとを、自分で調べ、分類し、構造をつけていくというように行動のしかたは、記憶のネットワークの形成を助け、ネットワーク構造の中に自覚的に情報を取り込んでいくということになるからである。脳が本来持っている働き方と合致するものであるから、脳は働きやすく活発に活動する。バラバラした経験が長い間に整理され、自然発生的にネットワークができていくのに比べ、はるかに速い。
 課題を持って探究的に行動している人間が、ある段階で飛躍的に伸びるのはそういうことである。前回紹介した池谷氏の例もこれである。

▼ 脳の成長をさまたげる学習や仕事のしかた
 原則として、行動すると脳は働き、脳が働けば働いた分だけ神経回路が形成され成長していく。ところが、脳を育てるどころか、脳を衰えさせてしまう学習のしかた(行動のしかた)がある。頑張ればできそうなすこし難しい課題に対しては、脳はやる気を出して活発に活動するが、とても手におえないような難しい課題には、脳は意欲を失って休んでしまうのである。また、やさしすぎる課題に対しても、脳は意欲を示さず、休んでしまうという性質がある。
 たとえば、高校や大学の授業で難しい話を聞いていてわからなくなり、途中で居眠りがでてしまうといった現象。また、わかりきった内容をくりかえし聞かされていて、退屈してしまうという現象。こういったときの脳は、意欲を失って休んでしまっている状態なのである。休んでばかりいると、脳は学習しない(新しい回路ができない)どころか、脳の学習機能そのものが衰えていくということが、様々な例からわかってきた。

▼神童、才子を「ただの人」にしてしまうのは・・・
 脳は行動することによって学ぶ。その人自身の脳が活発に活動し経験しなければ、脳は成長しないのである。子どもの神童・才子ぶりは、多くの場合、まだ本来の機能を発揮する前の脳の、単純記憶による情報収集時代の活動のしかたの現れである、必ずしも本当に脳の働きがすぐれているということではない。そこから、本当の頭の良さに到達するか、ただの人になるかは、ひとえに脳の働き方にあった行動をするかどうかにかかっている。
 本当に賢くなろう育てようと思うのなら、子ども(学習者)の脳がどれほど活動しているかを、考えて見なければならない。学習している(させている)つもりが、脳の成長にとって却ってじゃまになっていないか、見直してみる必要がある。

▼ 中学時代からの学習のしかたが鍵
 特に、中学時代からの学習のしかたが問題である。脳にとって有効な刺激、有効な学習は、年齢によってことなる。10代頃から脳の働き方は、丸暗記型から分類-組み合わせ型へと移行していく。小学校低学年のころ有効だった整理された知識を覚える学習も、10代の脳にとっては有効な刺激ではない。
 中学以降は圧倒的に多い講義型の授業が多い。その授業の中で学習者はどんな行動をし、何を経験しているだろうか。教師の脳だけが活発に活動していて、学習者は教師が整理した結果をただ聞くだけ書き写すだけになっていないか。事実を観察して読み取ることや、資料を集めデータを分析整理する、またその結果を材料にディスカッションするなど、脳に、活発に「分類-組み合わせ」の活動をしている(させている)だろうか。親や指導者たち、また学習者自身は、ぜひそういう視点で学習のしかたを見直してもらいたい。

 30過ぎて、自分は本当に賢くなったと、ぜひとも皆に実感してもらいたいのである。
  
   
 

2008/04/07

21 本当は30歳過ぎると賢くなる 

▼ 二十(はたち)過ぎればただの人?
 「十で神童、十五で才子、二十(はたち)過ぎればただの人」ということわざがある。ある時期、わが子の能力に目をみはった経験を持っている親は少なくないだろう。どんどん文字を覚え、本を読み、すばやく計算をする。そうした子どもを見て、将来どんなに優れたものになるかと親も周囲も期待をかける。ところが、成長するにつれてだんだんその能力に陰りが出てきて、学校を出る頃には平凡な人間になってしまい、思いが裏切られることになる。ことわざは、そうした経験から生み出されたものだろう。
 しかしなぜ、最初は神童とまで思えた人間が、大人になると平凡な能力の人間になってしまうのだろうか。

▼ 脳が本来の機能を発揮しはじめるのは、30歳を過ぎたころ
 脳に関する数々の著書を出して注目されている新進の脳学者池谷裕二氏は、大人になるとだめになるどころか、本当は「人間は30歳すぎたころから本当に賢くなる」、いやなれるはず、そういう脳を人間は持っているのだと言う。池谷祐二氏自身も、30歳を越えてから急に脳の働きがよくなったと感じるようになったという。
 池谷氏は、自身のことを一種の記憶障害であると語る。大学生ころまでは、いくら一生懸命勉強しても、友達のようにすぐには覚えられなかったという。だから、学習のしかたを工夫し必死にノートに整理しては覚える。そうして勉強してきた。ところが、30歳を越えた頃になって、それまで脳に蓄積してきた情報(記憶)が有機的に連繋しはじめ、発展的にものごとを考えられるようになったという。それは、その年ごろになると、脳の本質的な働きが、有効に機能し始めるからなのである。

▼ 子どもの記憶と大人の記憶
 われわれは、記憶力の良し悪しの判断を、ものごとを正しく覚えているかどうか、つまり記憶を正しく引き出すかどうかで判断する。確かに子どもは、教えられ覚えたそのことをすぐに答えられる。それが、頭が良いと驚かれる所以であるが、それは、記憶していることが少ないからである。記憶量が少ないために、目的の記憶をすぐさま探し当て引き出すことができるのである。
 一方、30歳ぐらいの大人の記憶量は、3,4歳の子どもの記憶量が1000だとすると1億か10億、もしかするともっと多いという。1000の記憶の中から目標のものを探すのと、1億10億の中から探すのでは、その大変さが違う。子どもの記憶の何十万何百万倍の記憶を対象にするのであるから、しまい場所にたどり着かなかったり、間違ったものを引き出してしまったりということが起こるのも当然で、それは大人の脳の働きが悪くなったということではない、と池谷氏は言う。

▼ 脳の本質的な働きは「分類して組み合わせ」
 「一を聞いて十を知る」という言葉がある。これは、頭の良い人のことを褒め称える言葉として使われるのであるが、実はそうしたことは、凡人であるわれわれも、日常的に経験している。
 人間の脳は、「ものごとを要素に分類して記憶し、その記憶を組み合わせて使う」という働き方をする。この「分類して組み合わせ」が、脳の本質的な働き方なのである。だから、新しいことでも、前に似かよった行動をしていたなら、それらの記憶を組み合わせて考えることができるし行動することができる。1から10まで全てを教えられなくてもできるのである。これが「応用をきかせる」ということである。
 この「応用をきかせる」ということは、子どもにはなかなかできない。子どもの段階は単純記憶で、この脳の「分類して組み合わせ」という働きは、まだ機能していない。分類と組み合わせは、記憶がある程度蓄積されていかなければできないからである。
 「応用をきかせる」ことは、大人になり、経験を重ねていくほどできるようになっていく。それは、脳がだんだん本当の機能を発揮していっているという証拠である。だんだん成長して能力が高まる脳を、われわれは持っているのである。

▼ 誰もが賢くなる可能性をもっている
 脳の働き方が、単純記憶方式から分類・組み合わせ方式に移行し始めるのは10代の頃からで、成長するにつれだんだんそれが主流になっていくという。行動経験がさまざまに積み重ねられれば重ねるほど記憶の量が増えていく。記憶が増えれば増えるほど、その組み合わせによって生まれるものも増えていくので、応用を利かせることができるし、新しいものを生み出せるようになっていく。30歳過ぎというのは、学校を出て10年、いろいろな行動経験が積み重ねられ、記憶が十分蓄積されたころである。そのころから人間が本当に賢くなっていくというのは、そういうことである。
 人間の脳は、誰の脳も本質的には同じである。したがって、誰もが、どんどん賢くなれる可能性を持っている。

 現実的には、必ずしもすべての人がそれを実感してはいるわけではない。逆に「中学校までは何とか勉強できたが、高校以降はついていけなくなった」「経験を重ねても、応用が利かない、いろいろなものごとを関連付けて考えられない、新しい工夫ができない」と悩む人は多い。それはなぜか。次回は、そのことについて考えてみる。

2008/02/29

20 「口中調味」ができますか?

 口中調味とは、おかずとごはんを交互に食べ、味を混ぜ合わせて食べるということである。口中調味は日本人独特の食べ方で、欧米人にはなかなかできず、例えばカツ丼を食べるという場合、カツだけ先に食べてしまいその後で残ったご飯を食べるという例が多いという。一緒に食べると味がよくわからないという人もいるそうだ。欧米人は、その食生活のなかで主食とおかずを別々に食べてきたために、混ぜて味わうという行動回路が脳の中にできていないからである。

 「行動したことが、行動できるようになる」のであって、「行動しないことは行動できない」ということである。行動というのは、必ずしも身体を動かすということではない。脳への刺激となる人間の活動すべてを意味する。同じ文章でも、「聞く」、「目で読む」、「声に出して読む」、「紙に書く」では脳へ刺激、神経回路への電気信号の流れ方は違うのである。さらに、その文字で書かれたことを、実際に身体を使って行動するのとでは全く違う。つまり、口中調味の仕方についての話を聞いただけで、実際にそのこと(口中調味)が出来るということはないということである。

 日本でも、最近口中調味ができない子どもがふえてきたという。「ばっかり食べ」といって、おかずならおかずばかり食べ続け、つぎは味噌汁だけをのみ、ご飯はご飯だけで食べるという食べ方をする。これは日本の家庭における食のあり方が変わってきたことを物語っている。子どもたちが口中調味と言う食べ方を経験する環境がなくなってきたと言うことである。口中調味をしなければ、口中調味を成立させるための記憶も成立しないからである。

 昔は三世代同居で「箸の上げ下ろしにもうるさい」祖父母や親がいて、そうした中で口中調味をする能力が育ってきた。そういう環境が失われてきたということである。家庭に口中調味が重視する人(世代)がいない、もしくは口中調味が重視する人とともに食事ができないという環境にあり、食べ方を指導されることが少なくなっているということを示している。事実、現代では、弧食・個食が社会問題になっている状態である。社会の変化は、行動能力の変化をもたらすということである。

19 学習時間と学習効果

 学習者のペースで考えさせたり、調べさせたり、実験させたりすると、時間がかかるという指導者がいる。だから講義方式にするのだという。そうすれば、予定の時間で学習を終わらせられるというわけである。たしかに、話で終わらせれば、教師の思ったとおりの時間で終わらせることができる。しかし、その時間に学習者がどれだけ自分の脳を働かせたかを、考えてみなければならない。

 話を聞いているときには「わかった」と思っても、後になって自分で考えようと思っても考えられない、ということがよくある。それは、わかったと思っただけで、本当にはわかっていなかったのである。
 本当にわかるというのは、話をした人が感じたり考えたりしたことを、自分も同じように感じ、また考えることができるということである。つまり、聞き手が話し手と同様に頭脳を働かせることができた場合に、それを本当にわかったというのである。話し手と同様に頭脳を働かせることができるためには、聞き手が話し手と同じか同じ程度の経験や論理力思考力が必要である。

 「教えれば(説明すれば、あるいはやって見せれば)できる」と考えているとすれば、それは間違いである。脳は、行動したことを記憶するのである。教えるというのは、教える側の行動である。教える人が、自分の経験を材料にして、自分の論理で話を展開する。教えているものの脳は、活発に活動している。自分の経験を整理し、追体験していることになりその行動を成立させるための神経回路(以下、行動回路)に電気信号が行き交う。その結果、その行動回路はさらに確実なものになる。
 それに対して、話を聞いているだけ、見ているだけで、自分のペースで考えず、やってみることもしない学習者の脳には、たいした刺激がいかないので、期待するような行動回路はできていかない。
 話を聞いてそれで行動ができるようになったという人がいるかもしれないが、その場合はもう既にそのことを成立させる要素となる行動回路ができており、それを関連づける視点が与えられたのでできるようになったということなのである。

(参照:13 試行錯誤の脳行動学的意味)

 話の内容や論理を理解するのに必要な経験や、論理を把握する力のない聞き手には、いくら聞いていてもよくわからない。わからないからおもしろくない、だから聞かない、というようなことになる。そういうことでは、いくら予定の時間に学習が終わったといっても、その時間は学習者にとっては無駄であったということになる。
 時間が少ないからこそ、形だけでなく、学習者の脳を思い切り働かせて、本質的な能力と行動姿勢を育てることを考えなければならない。

2008/01/21

18 荒川静香の授業

 ―個人競技も、チームでうまくなる―

 スケートのシーズン。ショーや競技の解説でTVに登場する荒川静香さんを見る機会がよくあるが、私は、以前に見たNHK「課外授業:ようこそ先輩」での荒川さんが強く印象に残っている。母校仙台市立台原小学校の6年生1クラスに2日にわたってスケートを教えたのだが、その指導のしかたが素晴らしかったのである。

● 前に進む姿勢をつくる
 1日目。荒川さんの模範演技の後、子どもたちは早速リンクに出される。経験のある子もいるが、スケートリンクの真ん中に行くだけで一苦労という子もかなりいる。しかし子どもたちには、いっさい手を貸さない。滑れない子にはコーンを渡し、それを押しながら前に進ませる。他人の力を借りるのではなく、自分の足を使って滑らせることがねらいだ。
 荒川さんは、子どもたちにスケート・リレーをするという課題を出す。一人で練習させると、手すりにつかまってなかなか滑らない子もいるが、チームで競争ということになると、前に進むようになるという。自分が滑れるかどうかがチームの成績にかかわってくるので、上達が早いというのだ。

● 目標は順位ではなく、自分たちの記録の短縮
 8人ずつ赤、緑、青、黄の4チームに分け、それぞれしばらく練習をした後、最初のレース。1チームずつ走って、タイムを測る。赤チームには経験豊富な子が数人いるため、断然早い。緑チームには今日はじめてスケート靴をはいたというAさんがいるため、赤チームより43秒も遅かった。しかし、チームワークと応援は一番。練習のときAさんには皆でこつを教え、励ます。応援では、コースの内側を併走して声をかける。
 荒川さんは、レース結果を示し、もう1回レースをすることを告げる。目標は順位ではなく、自分たちの時間をどのぐらい縮めるかということ。いかに協力するかが大切、と子どもたちに語る。そして、練習時間を与える。

● 一番タイムの良いチームにアドヴァイスしたわけ
 練習の様子を見ていて、荒川さんは、ひとつのチームの子どもたちを別室に呼び集める。タイムの悪かった緑チーム,黄チームではなく、一番良かった赤チームである。チームワークが悪いと感じたからだ。他のチームがアドヴァイスしあったりしている中で、このチームは、メンバーがそれなりに滑れるためか、一人一人ばらばらに練習していたのである。「勝つためには、チームの協力が大切」とアドヴァイスする。
 2回目のレースの結果、赤チームもそれなりに記録を伸ばしたが、チームワークの良い緑チームの記録の伸びにはかなわない。12秒差に迫られた。

● 荒川さんの思い
 荒川さんは自分自身の経験から、人に教えることとチームワークの大切さを実感している。かつて、同じスケート教室で学ぶ後輩たちにジャンプの跳び方を指導した。跳べない友達にどうアドヴァイスするか、どう励ますか、それを工夫する過程で自分自身が成長したことを実感している。なぜできないかを考えることが、自分自身に演技をふりかえさせることになり、改めて気がつくことが多かったという。
 2日目、荒川さんは教室で、自分の練習・競技歴とその節目節目での心の動きを整理した年表を見せる。そして、個人競技であるスケートも仲間のチームワークや、多くの人たちからの励ましがあったからこそ金メダルを胸に飾ることができたと語る。子どもたちに「勝つために大事なのは、お互いを思いやる心の結束」とアドヴァイスする。

● 自分たちで問題点を分析、練習 → 最後のレースへ
 授業も大詰め、いよいよ最後のレースに向けての練習だが、その前に荒川さんは、子どもたちに、自分たちのタイムをどこでどう短縮できるか、工夫の余地がある要素を洗い出させ、短縮のための練習のしかたを考えさせる。バトンの渡し方、コーナーの曲がり方、応援の仕方、滑れない子へのアドヴァイスの仕方など、それぞれグループで話し合い、その項目を紙に書き出す。
 その紙を持って再びリンクへ。各グループは練習計画に沿って練習。今度は、どのチームもみな協力し合っている。励ましあっている。
 最後のレースとその結果。各チームそれぞれに記録を更新したが、青チームは21秒短縮で、赤チームを抜いてトップに立った。緑チームは12秒短縮で、赤チームにわずか2秒差まで追いついた。それまで一番タイムの悪かった黄チームは、順位こそ変わらなかったが、短縮時間46秒は1位、最初のレースからは何と2分10秒も速くなった。
 最後に荒川さんは、子どもたち全員の頑張りをたたえ、「一生懸命やればきっとできる。大事なことは決してあきらめないこと。お互いを思いやる心の結束が大切」と結んだ。

●見事な荒川さんの授業、脳行動学の面からのポイントを整理すると・・・

① 「リレー」という共同行動,「チームの記録短縮」を課題として設定したこと
 ・自分一人の問題ではないので逃げられない。前に進むという姿勢になる。
 ・8人チームなので、一人ひとりにとっての気持ちの負担はそう大きくない。
 ・自分が頑張ればチームのタイムが上がるというやりがいもある。
   やり始める事が大事。やり始めるとやる気が出る。
   頑張ればできそうと思えるとき、脳は活性化し意欲的になる。

②チームで教え合うことに力を入れて指導したこと
 ・教えるためには、相手の滑り方を観察するとともに、自分の滑り方を見直すという活動になる。
 ・何気なくやっていることの意味にも気づくことも多い。
   反省的・自覚的に脳を働かすことが、脳の活動として一番効率がよい。

③目標を実現するためのポイントを「チームの協力」とし、適切な時点で、具体的な目標と適切なアドヴァイスを与えたこと
 ・記録の伸びに差が出て、問題意識が芽生えたときに、自身の経験を材料として「チームワーク」の大切さを語った。
 ・チームで具体的な工夫をさせ、確実に成果が出るようにした。
   助け合って良い結果を得られれば、助け合うことが好きになる。
   成長が自覚できると頑張れる。

 荒川さんは、「個人競技もチームでうまくなる」「助け合う仲間づくりこそ、全体の力が伸びる原動力」と教えたのである。助け合い、ともに喜び合える姿勢と手段を育てる。子と画でイメージさせるのではなく、子どもたち自身の活動の結果として、それを実感させたのである。

2008/01/18

17 脳が意欲的に働く条件

●やり始めると、やる気が出る
 やる気(意欲)を生み出す場所は大脳辺縁系(*)の側坐核。そこの神経細胞が活動すればやる気が出る。側座核の神経細胞が活動すると、海馬と大脳の前頭葉に信号が伝えられ、シナプスを刺激してやる気を起こす神経伝達物質が送り出されるのである。
 ただ、この側座核はなかなか活動しない。ある程度の刺激がきてから活動し始める。しかし活動が始まると側座核は自己興奮してきて活動が活発になる。特にやりたいと思っていなかったことでも、やっているうちに気分が乗ってきて集中力が高まる。「やることによって、やる気が起こる」ということである。
 とすると、意欲(やる気)を起こさせるには、行動に導くための工夫が大事だということになる。やる気を起こす活動をしている側座核に強い刺激が伝わるように、学習や仕事を組み立てる必要があるということだ。

●脳は「快」の方向に働く
 「快」の方向に働くというのが、脳の本性である。「快=自分にとって心地よい=安全」という、自分の生命を守る本能としての働きがあるからである。「不快=自分にとって心地が悪い=危険」となるからである。だから脳は、「快」の状態を好きになり、「不快」の状態を嫌いになる。「快」になる方向に行動し、「不快」を避ける行動をする。「好きなことは、言われなくてもやる」というのはそういうことだ。
 快・不快の感情をつかさどるのは、やはり辺縁系の扁桃体。即座核と扁桃体の活動が、意欲を起こすための鍵となる。

●成長が自覚できると、頑張れる
 いくら勉強してもわからない学習、いくらやっても成果が上がらない仕事には、だんだんやる気を失ってくる。この方法、この進め方でよいのかという疑問もおきてくる。逆に、自分の力が確実に伸びた、成長したと自覚できるとやる気が出る。成長が自覚できたときの喜び(快)が強い刺激となって側座核に伝わり、そのときの快感を持続したいと思うからだ。
 進めて行く段階段階で成長が自覚できる、また目標に近づいていくという喜びや感動が生まれるような、学習や仕事をそのように組み立てるとよいということだ。

●「頑張ればできそう」と思えると、意欲的になる
 脳がどういう課題を与えたときに一番活性化するかを、実験して調べたという。脳の血流量を調べたところ、簡単すぎる課題のときは、脳の血流量は上がらない。難しすぎる課題のときにもあがらず、むしろ低下してしまう。そして、少し頑張ればできるという程度の課題のときに、血流量が増えて脳が活性化していることがわかったという。
 つまり、少し上の目標に向かっていくときに、一番意欲がわくということだ。目標に到るまでを、頑張ればできる、といういくつかの段階に組み立てて、少しずつ目標に迫っていくという学習の仕方,練習の仕方が、脳には適しているということである。

● 失敗したとき、やる気がでる
 失敗は、不快である。脳は、失敗を避ける方向、不快を打ち消す方向へ活動する。だから、失敗しそうなことには手を出さない。しかし、失敗してしまったときにはやり直したいという気持ちが生まれる。失敗を修正して、不快の状態から抜け出したいのである。
 だから、失敗したときは学習するチャンス、学習させるチャンスということだ。失敗を自覚していれば、同じ失敗をしない。意識の自覚ではなく、身体活動を含めた総合的自覚をさせ、自分自身で失敗を修正していく。修正できている、修正できた、という実感が得られれば、それは「快」になる。意欲的になる。

 苦労を重ねて失敗を克服したとき、その喜びは大きい。また、仲間とともに助け合った経験も、大きな喜びをもたらす。そういう経験をしたものは、苦労が見えていても、また失敗の危険があっても、意欲的に取り組むようになって行くのである。

★脳を意欲的にするための考えるポイント
  
① 好きなこと,関心のあること  
  ② 頑張ればできそうと思える目標の設定とその段階
  ③ 成長が自覚できる学習の組み立て(前段階との比較など)      
  ④ 失敗の修正のしかた


*大脳辺縁系
 大脳新皮質の奥に位置する。進化の早い過程できた部分。論理や言語活動を成立させる大脳新皮質(新しい脳)に対して、本能的に生き活動するための脳で、古い脳と呼ばれる。